手を伸ばせば触れられる距離で、命と向き合ったことについて。
人って意外と、自分の命が終わるかもしれないって理解していないのかもな。ということを感じた。
「命はいつか終わりを迎える」ってよく言うし、言葉にはあふれている。僕も理解しているつもりだった。
最たる例が、史上もっとも有名で影響力の大きいスピーチの一つ、
スタンフォード大学卒業式でのスティーブ・ジョブズの名スピーチ。聞いたことがある人も多いと思う。
もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか?
って。明日死んでも後悔しない日を生きよう!なんて思っていたんだけれど。
先日、ある女性と会った。
仕事で結果を出している人。第一印象は、すごくふわっとした空気の人だな、と思った。でも彼女は人が見たらびっくりしてしまうくらい頑張っていて、「なにか理由があってがんばっているんだろうな」ってなんとなく思っていたんだ。
そして先日、偶然にもちゃんと話をする機会があった。背景を聞いていくと、彼女は現代医学では完治できない病と共に生きていた。その治療をおして、「約束したから」とあちこち動き回り、時間を惜しみながら痛み止めを打ちながら懸命に動いていた。
明るくて、元気で、人への感謝を忘れなくて、とってもいい子だな(たぶん年下)と感じていたのだけれど、実は、もしかしたら明日生きられないかもしれない、という状況の中生きていた。それはまさに文字通り。
僕は、これほどまでに生きているか?
言葉とか映像とかじゃなく、目の前で空気を共有しているこの人が、いつ状況が変わるかもわからない中、おそらく使命を持って、頑張っている。
そんな彼女を目の当たりにして、
「生きる、命を使う」
ってことを突き付けられた。
彼女の行動一つ一つの理由。魂のレベルが高すぎる、なんて一緒にいた人がぽろっと言っていたけれど、
なんも言い訳できないな、と思った。
それってなんでなの?なんでそんなにがんばっているの?って彼女に聞いて「生きているからだよ」って答えが帰ってきたとする。聞けなかったけどさ。でも聞いたとしたら、彼女と同じステージにいるほどに、自分の命を毎日使い切って生きていないと、ほんとうの意味でそれ知ることはできないなって。
気持ちが変化したとか、決意した、なんて無意味なもので終わらせたくなかったから、
僕がその日からすることは、
あのひとの目をまっすぐに見て、『今日一日分の命を使い切るほどに最大限生きました。』って胸張れる生き方をしたか、一日の終わりに自分に聞いてみる。
変えるべきとこがあるなら変える。それと、
日々の選択や行動の時、「その選択であのひとに胸張れんのか?」って自分に問う。
心から尊敬します。
昨日も書いたけどこれは、生きざまの問題。